健忘じょぶの備忘録

初めまして、じょぶと申します。以前はニコニコ動画で車載実況というVlog的なことをやってました。趣味の車やアウトドア、ファッション関連の記事や日々の生活での気づきを備忘録的に記事にしています。みなさんの参考になれば幸いです。

75回目の終戦記念日に平成生まれの私が戦争体験を語る

こんばんは。じょぶでございます。

 

今日は2020年8月15日、75回目の終戦記念日です。

今まで深く太平洋戦争について考えることって、ありませんでした。

例年この日を迎えると、テレビで戦争関連の特番コーナーが放送され、それを見て「ああ、終戦の日か」と思うぐらいです。

ほとんどの人がその程度の認識なのではないかと思います。

今を生きることに精一杯な我々にとって、75年前なんて遠い昔、想像も出来ないほど昔の出来事だと感じませんか?

 

私は戦争とか軍モノが好きな友人が身近にいたせいか、太平洋戦争についても少しは興味を持っていました。

ただし、調べるとしても精々戦闘機だとか兵器だとか、無機質な情報としての戦争です。

例えば特攻隊だとか、大空襲だとか、被爆だとか、そう言った生々しい戦争体験については調べたことがありませんでした。

 

理由は色々ありますが、同居していた祖母が戦争体験者だったからだと思います。

私が小さい頃はよく戦争の話を聞かせてくれましたが、段々と戦争から遠ざかるようになりました。

テレビで戦争関連の話になるとチャンネルを変えたり、昔の話はしなくなったりしました。

それから我が家では戦争の話はタブーになりました。

そんなこともあって、私は未だに「火垂るの墓」を見たことがありません。

 

 

しかし、今年は戦争について無意識によく調べている自分がいました。

実家から離れたことや、結婚して新しい家族ができたことが理由にあるのかもしれませんが、当時の人々がどのように生きていたのか、強く知りたいと思うようになりました。

 

いわゆる語り部の人たちが高齢化し、後世に戦争体験が残らなくなっていく、そういった漠然とした焦燥感を抱えながら、暇を見つけては戦争体験のネットニュースを読む。

そんな生活を、8月6日から今日まで送ってきました。

 

私もこれから子育てをしたり、親の面倒を見たり、自分だけのために使える時間は残り少ないかも知れませんので、昔の記憶を辿りながら、祖母が話してくれた太平洋戦争をブログに書き残しておこうかと思います。

 

75年前、現在では考えられないような残酷な世界が確かに存在し、祖父母が逞しく生き抜いてくれたおかげで今の自分がいる、ということを考えながら記録していきたいと思います。

 

祖母の家は母子家庭であったため裕福ではありませんでしたが、そのあたりでは広いお家に住んでいたそうです。

敷地内に防空壕が掘ってあったので、空襲警報のときは近所の人が集まったそうです。

空襲警報のサイレンがなると防空壕の中に逃げ込みますが、中はとにかく暗くて怖かったそうです。

 

祖母のお父さん(私のひいお爺さんに当たる人)は政治家だったらしく、家にも英語で書かれた当時貴重な洋書がたくさん残されていたそうですが、非国民とされる恐れがあったため全て燃やしてしまったそうです。

 

主食は主にサツマイモ。

祖母の口癖は「一生分の芋を食べたから芋は嫌い」甘党の祖母でしたが、蜜がたっぷりの美味しい焼き芋も、絶対に口にしなかったです。

 

祖母が住んでいた地域は焼夷弾で焼かれたりすることはあまりなかったそうですが、機銃掃射は何度も受けたと言います。

低空飛行で機関銃を撃つ戦闘機に対して、子どもたちは死にたくない一心で必死に走り、茶畑へ飛び込んで逃げたそうです。

茶畑に飛び込む瞬間、コクピットに座るグラサンをかけたパイロットが笑っているのが見えたと、よく言ってました。

祖母の話だと、本気で子供を撃っているのではなくて、東京への空襲の帰りに残り弾を捨てるために遊びで掃射していたんじゃないか、と考察していました。

 

機銃掃射による犠牲者はいなかったそうですが、同級生が一人亡くなったそうです。

自宅でコタツに入っていたところ、脳天に不発弾が直撃したとのことでした。

 

東京大空襲のときは、東京の空が真っ赤に染まっているのが見えたといいます。夜中までずっと明るかったと言っていました。

 

祖母は8人兄弟の末っ子でした。

当時は10歳ぐらいだったと思います。

祖母の兄は満州まで行っていたそうです。祖母とも面識があった兄の同級生も、同じく満州に行ったそうです。

そこでの生活があまりに過酷で、みんなで説得しましたが、ついに同級生は敵陣に向かって逃げ出してしまったそうです。

敵に捕まればひどい目に合う、それなら捕まる前に、と祖母の兄は泣きながら同級生に向かって引き金を引いた、と言っていました。

 

広島と長崎に恐ろしい新型爆弾が落ちたことも人伝に聞いたといいます。

当時の主たる情報元はラジオだったそうですが、原子爆弾のニュースはなかったそうです。

 

日本の敗戦を伝える、天皇陛下玉音放送を聞いたときは、特に何も思わなかったと言っていました。

 

終戦後は学校でアメリカがシラミを殺してくれたことに感謝してる、と話していることが印象的でした。

たぶんDDTのことでしょう。

 

 

以上が僕が知る、というか思い出せる限りの戦争体験になります。

 

もっとひどい経験をした方も多いと思いますが、自分の祖母の話だけでこれです。

ご存命であれば私達には四人ずつ祖父母がいます。

それぞれの家庭でこれだけの体験があるとしたら、どれだけ戦争が悲惨だったかを思い知ると思います。

 

私は大好きな祖父母が、幼いころに戦争を通じて辛い思いをしていたと考えると胸が苦しくて仕方ありません。

今後戦争が起こるとしても、太平洋戦争のような事にはならないかも知れません。

しかし、戦争体験から人の痛みを知るということは現代を生きる私達にとっても必要なことなのではないかと思います。